その日は朝から忙しかった。私は自分の荷物をまとめ、バッグの隙間という隙間にナッツやバナナを詰めて、朝8時には家を出た。そのままアブディス大学前の広場まで歩くと、いつも通り黄色いミニバンが何台も乗客を待っていた。目的地はナブルス(Nablus)。しかし、ナブルスでは2週間ほど前の2月22日にイスラエル軍による大規模な襲撃があったため、道路の閉鎖は解除されたというニュースは読んでいたものの、それが事実かどうかは実際に行ってみないと分からない。
私の隣を歩いているのは、ニコルという20代後半の女性だった。スウェーデン人の彼女はイスラム教徒で、外では必ずヒジャーブとアバヤを身に付けている。青い瞳がビー玉のように美しく、いつもヒジャーブから細い金髪がピョンピョン飛び出してしまうのを気にしていた。家の中では快活なのに、一歩外に出ると声も態度も小さくなるのは、見た目のせいであまりに注意を引くからだろう。私の腕を掴んで隠れるように歩くことも少なくなかった。
ニコルは小さい頃から頭が露出していることに抵抗があり、いつも帽子やフードを被っていたので周囲からは「社会に馴染めない子」と思われていたらしい。それが嫌で代案を探し回り、行き着いたのがヒジャーブだった。着けてみたら信じられないほど落ち着くことに、神の存在を信じていなかった当時のニコルは恐怖を感じた。YouTubeで反イスラムの動画を観まくり、あえて自分をイスラムの世界から遠ざけようとするくらい。でも、紆余曲折を経てアラブ語を習得し、礼拝が大きな心の安らぎを与えてくれることに気付いたニコルは、神の存在を認識し、イスラム教徒であることを自分の一部として受け入れるようになったらしい。彼女にとってイスラム教徒になることは自分が自然体でいるためのごく自然な選択で、家族もニコルの選択をサポートしていた。
ただ、ヒジャーブという名の布切れを頭に着けているだけで周囲からは疑いの目で見られることが多く、イスラエルが送り込んだ“スパイ”と言われることもあった(そんな嫌疑をかけられる時点でスパイ失格ーもしくは、それも戦略か?)。逆に、“スウェーデン”というステータス(および万が一のときの亡命先)を望むパレスチナ人から見合いを強制されることもあった。どれもこれもヒジャーブさえ外してしまえば避けられることだった。金髪の北欧女性として生きるほうがきっと何倍もラクなのに外さないのは、イスラム教徒であることがニコルにとって真の救いだからか。それとも彼女が自分でも気づいていない理由が他にあるのだろうか。いずれにせよ私は、他人にどう思われようと自分が生きたいように生きているニコルが好きだった。
何人かのドライバーが運転席から顔を出し、どこへ行くのかと聞いてくる。ナブルスと答えると、ここから直で行くミニバンはないので、ラマラ(Ramallah)まで行って乗り換えるように言われた。
いつもなら窓側の席を確保するが、その日は最後列で人に挟まれる形になった。そのせいか若干車酔いをしながらぐねぐねの山道を走り、1時間半ほどでラマラに到着。閉鎖的なアブディスから約30kmしか離れていないことが信じられないくらい、ラマラはオープンで活気に満ちている。何十倍もの人と車が行き交い、ヒジャーブを着けた若い女性が堂々とタバコを買う。五感を刺激するものが十分あるので、ここでは子どもたちに凝視されることも野次を飛ばされることもない。車酔いが治まるのを感じながら、私たちはナブルス行きのミニバンを探すため、コンクリートの建物の2階にある乗り場を目指して歩いた。今日は春を感じさせる暖かさだ。
ミニバン乗り場では、運転手たちが輪になって談笑しながらタバコに火を付けている。でも、大笑いする人は1人もいない。これはラマラに限ったことじゃない。笑いはしても、大笑いはしないのだ。声を出してケラケラと、お腹がよじれるほど笑うパレスチナ人を私は見たことがない。その代わり、人懐っこい笑顔の奥には怒りが、情熱的な瞳の奥には悲しみが、いつも必ず見えていた。それが彼らの美しさだった。
ラマラからナブルスに続く道は穏やかじゃない。至る所でイスラエル軍の兵士が高台や塔の中から車道に銃口を向けている。その頻度はナブルスに近付くほど高くなり、ミニバンの車内は緊張に包まれる。みんながシートベルトを締めて、正面か下を静かに見つめる。恐れと怒りと悲しみと悔しさと、祈るような気持ちが全部入り混じったような表情で。
ナブルスの一角でミニバンを降り、道路を渡って少し歩くと、今回の目的地バラタ難民キャンプ(Camp Balata)が見えてきた。キャンプと言ってもテントではなく、国連が立てた本部ビルと学校、それを取り巻く住宅地を含むエリア一帯が現地ではキャンプと呼ばれている。本部ビルには事務所、会議室を兼ねた学習スペース、体育館のようなステージが付いた講堂の他に、長期滞在するボランティア用のフロアも用意されていた。そのフロアには男性用のアパートと女性用のアパートがあり、それぞれにリビングルームとベッドルームが3室、キッチンとシャワールーム、あまり機能しなかったものの一応Wi-Fiまで付いていた。これで1泊3千円はラマラ市内のホステルより安いし、あまりの快適さに驚いた。
屋上に出ると、このエリア一帯がキャンプと呼ばれる所以が分かった。起伏に富む地形のパレスチナでは、それなりに一軒家や5階建てくらいのアパートが密集している場所がある。でも、ここでは窓を開けたら隣の建物の壁、という日本の大都市を思い出させるような光景が四方八方に広がって、その建物の間を走る細い道にゴミや瓦礫が散乱していた。学校は2階建てで校庭も広いけれど、元気に走り回る生徒の姿はいない。正直いつ授業が行われているのかすら分からない。チャイムが鳴ることもない。その屋上には「建てただけで何もせずに出て行った」という“UN”(国連)の文字があった。
このキャンプには、数十年前にイスラエル軍に土地を奪われ、以来ここに住んでいるという人もいれば、おじいちゃんが難民としてナブルスに移り住み、自分で早3代目という子どももいる。周辺地域の人々からは「あのエリアは治安が悪い」だとか「ボランティアに化けたイスラエルのスパイが来ている」だとか言って疎まれているものだから、外の社会に馴染めないキャンプ生まれ、キャンプ育ちの子どもたちが増えていく。
モスクからアザーンが聞こえてくると、小高い丘に沈む夕日を見ながら、ニコルが静かに腰を下ろした。
翌日の朝、本部ビルには数十人の子どもたちの姿があった。その賑やかさに一瞬戸惑う。パレスチナの女の子たちは概してシャイだが、こちらから話しかけると真摯に受け答えしてくれる。表の通りでは、朝っぱらからエナジードリンクを飲みながら小学生くらいの少年たちがサッカーをしていた。一緒に混ざって十年ぶりくらいにボールを蹴っていると、2階の会議室で民謡を歌うから聞きに来ないかと誘われた。
行ってみると、小学校低学年から中学生くらいの少年少女が10人ほど長テーブルを囲んで座っていた。パレスチナの子どもたちは恥ずかしいと言いながらも写真や動画を撮られるのが大好きだ。私がスマホを取り出すと、はにかむような笑顔を見せる。ああだこうだと言い合いって誰が何を歌うかが決まると、少しの間を置いて、1人の少年が驚くほど心地良い声で歌い出した。1日5回の礼拝がこの声なら、もっとじっくり聴き入るだろう。他の子たちがドラム代わりにテーブルを叩いてリズムをとる。
それは『من سجن عكا/アッカ刑務所から』というパレスチナを象徴する歌だった。1930年、イギリス委任統治領だったパレスチナにあるエルサレムで、1つの歴史的な事件が起きた。エルサレムには“嘆きの壁”と呼ばれる壁がある。この壁はユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても神聖な壁なのだが、シオニストたちが「この壁は我々のものだ!」と叫び、シオニズムの讃美歌を歌った。それがきっかけでシオニストとパレスチナ人の武力衝突が勃発。パレスチナ人はイギリス入植地政府がシオニストに加担しているとして各地で反乱を起こし、数百名のパレスチナ人がイギリス入植地政府に捕らえられ、そのうちの数十名が絞首刑になった。これが世界的な批判を受けたため、イギリス入植地政府は残りのパレスチナ人に対する刑を絞首刑から終身刑に変更したが、ヒジャーズィー、アルズィール、ジャムジョウンの3人だけは例外だった。3人とも20代と30代の若者だった。刑執行の前日にヒジャーズィーは、家族に宛てた手紙の中で次のように述べている。「毎年6月17日は、パレスチナとアラブ人のために流された私たちの血を追悼するためのスピーチが行われ、歌が歌われる歴史的な日となるべきだ」
実を言うと、この歌をキャンプで初めて聴いたときは曲名などどうでもよかった。ただ、その歌声とテーブルを叩く音が作り出す悲しくも美しい世界に浸るだけで十二分に幸せだった。この歌に再び出会うのは、その数ヶ月後、ネットフリックスで『When I saw you』というパレスチナ映画を観たとき。パレスチナ解放機構の戦士たちが焚火を囲み、この歌を歌っていた。
会議室を出ると、上の階からドンドンと床を踏み鳴らす音が聞こえる。どうやら講堂のステージで女の子たちがパレスチナの舞踊の練習をしているらしい。覗いてみると、黒髪のロングヘアが美しい4人の少女がステージ上で舞っていた。その容姿からは想像も付かないような強さと激しさに息を飲む。この舞踊にもまたパレスチナ解放を願うメッセージが込められていた。
蹴り倒されて踏まれても立ち上がり、生まれ育った土地を奪われても自尊心を失わず、目の前で警棒を振り上げられても両手を広げて行く手を阻む。石ころ片手に銃口や戦車に立ち向かい、ユダヤ人入植地に向かって汎アラブ色の国旗を高々と掲げる。そして、同胞が銃弾に倒れる瞬間や、同胞が残した最期の一言をインスタグラムやツイッターで毎日のように見聞きして、殉教したヒーローたちを称える。そんな風に育まれるしかなかったパレスチナ人の愛国心は、歪んで見えるほどに深く、胸を押し潰すほどに重い。この難民キャンプの子どもたちもまた、その小さな体の中にマグマのような愛国心を抱えている。
追記:
2023年10月31日、ニコルから連絡があり、前日の30日にバラタ難民キャンプの管理責任者の息子ラスミがイスラエル軍に撃たれて亡くなったという知らせを受けた。エナジードリンクを飲みながら、私と一緒にサッカーボールを蹴って遊んだ少年たちも。